烏印雑文堂トップへ  思考の泥沼メニューへ

不撓不屈のあかんたれ

 
何があってもめげないね、と良く云われる。
当然である。不撓不屈こそが私の最大のウリなのだ。でなければ生きて来れなかったから。
もうダメだ……と諦めてしまうのはとても楽で、それはそれは甘美な誘惑なのであるが――

今からちょうど10年ほど前、二十歳前後の頃の私はものすごく暗くて投げやりだった。 自分の行く先が見えなかったから。
自分は何がしたいのか、何になりたいのか、どこへ行きたいのか。
将来の不安は転じて自己嫌悪になり、自己嫌悪が発酵して自分の存在意義への疑問に化け、最終的に出来上がったのは「生きてるの面倒くさいなあ」というモノだった。
いかにして殺してもらうか、ということを延々と考えていた。
「いかにして死ぬか」ではなく「殺してもらう」という発想が、私らしいといえば
私らしいし、今となっては笑い話である。

そんな状態からどうして抜け出せたのか……あの頃の私と同じように悩んでいる人たちに ――たいていは私より年若い女の子……男の子の場合もあったが―― 幾度となく訊かれてその度に答えてきたことを、ここに記しておこうと思う。
悩める子羊よ、心して聞きたまえ(全く、参考にはならない自信があるが)。

考えるのをやめたのである。

ただ、それだけだ。考えすぎて煮詰まってしまったのなら、考えるのをやめよう、 自分の存在意義、生かされている意味なんて、どうでもいいや。
だいたい、そんなもんハッキリ答えられる人間が果たしてどれだけいるんだろうか、と。 たったそれだけの結論をはじき出すのに、私は1年かかった。

生き甲斐、あるいは目標と呼べるものがある時は、生きていくのは至極簡単である。 それに没頭している限り、それに向かって進む限りは自分が空ろではないのだから。 一生懸命でがむしゃらだから、そういう人は素敵に輝いて見える。 でも、ずっと遮二無二走っていても、それはそれで結構疲れる。

目標が見当たらないからといって落ち込むことはないのだ。
どっかりと胡座をかいて、自分が何をしたいのかと逡巡している時期があってもいいじゃないか。
でも、ただ待っているだけでは何も変わらない。
ひたすら受け身の人間の元にはチャンスなど転がって来ない、ということをお忘れなく。



「大切なあなた」

10年前に考えた通り、今でも私は自分の存在理由なんてどうでもいいと思っている。
何のために生きているのかと訊かれ強いて答えるならば、
それは自分のためと答えるより他に云いようがない。
最も大切なのも自分自身だ。でも――仮に自分以上に大切な誰かが存在するとしよう。
けれどそれは多分――少なくとも私の場合は――ただひたすら純粋にそのひとが大切だ
というだけではなく、その存在が自分が生きていく上で不可欠な要素だから、その人が
いなければ自分の中が空洞になってしまうから、もっとはっきり云うと、「生きていけ
ない」と思えるからなのだ。「自分のために」在り続けてもらわなければ困る。だから
「自分以上に」大事。
――勝手だな、私。
本当はね。こんな理屈を捏ねる必要は無いんだけれど。
「君が存在しない世界で生きる意味なんてあるかっ!」
云われるより、一度吐いてみたい台詞である。もし私がこういうことを云ったとしたら、
その時はこう訳すべきなのだ。
「私が在り続けるために、生きててもらわんと困るねんけどなぁ」
ま、どちらにしろ、クサイ台詞ではある。



「大切なあなた」は、電脳版の書下ろしではなく、収録されていたものです。
1999年6月 初稿
2001年7月 改稿(電脳版)

烏印雑文堂トップへ  思考の泥沼メニューへ