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健康という名の当たりくじ

 
私は、善良(?)な小市民なので、小さな小さなことに喜びをみいだすのが好きだ。 いわゆる「おふくろの味」と呼ばれる程度の、普通の家庭料理を食べることができて、 あまりツギハギだらけではない衣服を着ることができて、 床下に不発弾などが埋まっていない、雨風から身を守れる安全な住居に住めて、 欲を云えば活字に不自由しない生活が送れるだけのお金があれば、万々歳なのだ。

そして家族みんなが健康ならば、さらに云うことはないのだろうが、 現代社会において完全なる健康家族というものは、 かなり希少であるように思われる。 実際、ウチは両親とも病院通いで私も常備薬が必要な人間だ。 これは健康家族から見ると不幸に映るらしい。
しかし私は生まれてこのかた、自分が病弱であることで(あるいは他の理由でも) ――悔しい思いをすることはもちろんあるけれども――不幸だと思ったことは一度もない。 誓って云うが、ただの一度も一秒たりとも、自分が不幸だと思ったことはない。
幸せだと思える瞬間は数限りなくあるけれども。

だから、不健康イコール不幸では、決してない。

私は健康でなくとも別にいいやと思う。
健康でないからといって劣等感を抱くことはないのだ――
とはいえ、それはなかなかに難しい。
実際身体の弱い人間は、力がなかったり耐久力がかなかったりするわけだから、 そういう部分だけを見ると病人は確実に健康な人間には劣るわけだ。
しかし考えてみるに、病院と無縁の家庭で育った人間は、 案外メンタルな部分が弱いことが多いのである。
例えば――


* * *



健康が自慢だった人が、一時的に数日間あるいは数週間の 入院を必要とする病気にかかると、たいてい見る影もなく落ち込んでしまうね。
僕は今までにそういう人を何人か見たことがある。
まるでこの世の不幸を一身に背負ってでもいるかのような、鬱状態になる。
癌だとか中途失明だとか、その他現代の医学では不治の病だと云われる深刻なものなら、 それも解るがね、自分次第で何とか治る病気なのに 自分の人生どころかこの世の終焉を迎えたかのように、涙、涙で暮らし始める。
本人は真面目に悩んで苦しんでいるようだどね、 何年も何十年も入退院を繰り返してきた者から見れば、 それは随分滑稽に見えるんだ。

ふふ、酷いことを云ってると思うかい?
じゃあ嫌われついでに云うけど、場合によってはザマを見ろ、と思うことさえあるね。 なぜかって、そういった健康が売り物の人間の中には、 病気のものに対して自己管理が出来ていないからだとか、役立たずだとか云う、 人の痛みを解ろうとしない連中がいるからさ。

いいかい?
勘違いするんじゃないよ。
健康かそうでないかは、単なる運だ。
もしも君が完全なる健康家族の中で育ったという人間であれば、
それはこの上なく素晴らしい幸運に恵まれているだけだ、
ということを自覚して欲しいね。
健康であるからといって特別優秀なわけではないよ。
だってそれは君のお手柄じゃあないだろう。

病気で体力がないとか、足が悪くてゆっくりとしか歩けないとか、 目が見えない、耳が聴こえない、などといった ハンデを持つ人間に対して優越感(哀れみや同情も同じコトだ)を持つのは、 履き違えもいいところだ。

重ねて云うがね、健康な人間は運がいいだけなのさ。

だからせいぜいその入手困難な幸運を――健康という名の至宝を、 ずっとずっと大切にすることだ。

しかしね、時にこの宝物はいとも簡単に破損する。
それは突然何の前触れもなく壊れてしまうことだってあるし、 君の知らない間にじわじわとヒビが入っていました、なんてこともある。
そういう時はショックだろうね。
絶対の自信を持っていたものが壊れてしまったら、誰だってそうさ。

だからと云って、そんなに悲観することはないのさ。
なにしろ、健康なんてただの運なのだからね。
宝くじの当たりくじを失くしてしまったからと云って、 君の人生は終ってしまうのかい。
それがなければ君には何も残らないのかい。
パンドラの箱の底にさえ、何かがひとつだけ残っていたと云うじゃないか。
君が箱に劣るということはないだろう?

壊れてしまったものは仕様がないじゃないか。
時間が戻せるわけじゃなし。
でも、壊れたままでいるのは嫌なんだろう?
なら修復すればいい。
それだけのことさ。







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