秋の味覚
街中、いたるところで《秋の味覚》の文字をみかける。
ほかに表現の仕方はないのかというくらい。春の味覚、冬の味覚、という言葉は
ここまであふれていない。
少なくとも日本の秋という季節には、日本人好みの美味しい食材がたくさん旬を
むかえるということなのだろうが、その中で私が一番好きなモノは松茸でも栗でも
つがるりんごでもない。
極早生みかんである。
カチカチで真緑の、甘さのカケラもない運動会の季節のみかん――だったはず
なのだが、昨今は多少なりとも甘くないと売れないのか、酸味が嫌われるのか、
運動会の季節にはほどよく黄色くなっているので、ガッカリだ。
小学生だったころ、運動会に持たされる使い捨ての紙のお弁当箱の中には、エビフライと栗ご飯と、横に真っ二つに切ったみかんがぶち込まれていた。
シンプルだがギッシリと詰め込まれた秋の味覚(エビは違うか?)を、運動場で土
ぼこりにまみれながら食べたものだ。
梨もいい。実は極早生みかんより好きなのだがズボラな私は剥くのが面倒臭い。
ちなみに私が云う梨は二十世紀梨のことで、幸水や豊水といった赤梨ではない。
しかしそろそろ時代も変わる。
二十世紀梨の改良品種の二十一世紀梨とか出てきてもいいと思うのだが……。
※20世紀中に書いたものなので……。
台風とモヤシの微妙な関係
秋に出回る魚と云えば、まずサンマ。『秋刀魚』と書くくらいだから、これはもう秋の魚の代表なのである。
ところが困ったことにこの季節は決まって大根が高い。両方安ければピンチの時のお助けメニューになるのに。これは何かの陰謀かもしれない。12月(じゅうにつき)の神様が鮮魚か青果業界、あるいはその両方と癒着して天候操作を行い大根の値が上がるようにしむけているのかもしれない。
まあ、サンマと大根の問題には目をつぶるとして、秋に心配なのは台風である。家屋が壊れたり人が死んだりという被害のことは、報道されているからこんなところで語らなくてもいいだろう。私が心配だと云うのは野菜や果物の産地に大ダメージを与えたりすることなのだ。
直接被害を受ける生産者はもちろん大変なのだろうが、本当の苦労は同じ目に遭わないと解からないが、キャベツが1玉700円もしたら。
好物のお好み焼きが贅沢メニューになってしまうからとても困る。
お好み焼き屋さんは泣けてくるだろう。まさか材料の値段が一番高騰する時期を想定して値段をつけているわけでもないだろうから、そんな時に外で食べるお好み焼きの中のモヤシの割合が多少増えていたとしても、怒ってはいけない。
そんなわけで台風が来ると、屋内で栽培されているため値の変動のないモヤシが売れるようになる。
こんな所にまで影響が出てくるのだから、自然の力はやはりスゴイのだ。
※21世紀に入ってからは、秋の野菜相場は微妙に安定してるみたいです。 少なくとも、スーパーでキャベツ半分が398円、になる時期はない……なかった、よね?(笑)
月夜の晩に
9月の行事といえば敬老の日、ではなくてお月見である。中秋の名月、なんて言葉があるくらい、秋の月は美しいらしい。
らしい、というのは私は秋の月だけが特別綺麗だとは思えないからである。月はいつ見ても月だと思うし、秋でも天候によっては赤く見えたりぼやけていたりするじゃないか。
でもあまり名月を貶してばかりいると全国の風流な方々に怒られるだろうからやめておく。私が云いたいのは、特定の季節だけの月を美しいというのは変じゃないのかということ。それは女性に向かって「今日は綺麗だね」と云ってしまうのと同じくらい失礼だと思うから。
月はいつだって美しいのだ。
月にはウサギが棲んでいて、もちをついているというお話もある。
月にウサギが棲めるなら人間も棲めるのではないのかしらとか考えてしまう。
でももしかすると彼らは宇宙ウサギで、地球のウサギとは身体の構造が少し異なるのかもしれない。
例えば――そう、太陽にいるのは3本足の烏(ヤタガラス)だというから、月のウサギは耳が3本あったりするかもしれない。
ウサギがいるかどうかはともかく、月というのは太陽よりはるかに身近なところにあるくせに、現在はまだ行き来ができていない。
私が生まれた年、1969年にアポロが月面着陸してから30年も経つのに《月経由〇〇行き》などという定期シャトルが1本も出ていないところを見ると、やっぱり宇宙というのは侮れないのだなと思う。
でも、まだたかだか30年だ。これから数十年すれば今のSF小説の中に出てくるようなことは日常茶飯事になっているかもしれないじゃないか。
ヨボヨボになってからでもいいから、1度くらいは月旅行に行って、生のクレーターを見てみたい。
ただ少し気がかりなのは――その時に月から見る地球が、まだ青い色をしているかどうかだ。
びよろん
いつの頃からか、頭にこびりついているフレーズがあった。秋、という単語を聞くだけで思い出すこともある。ついでに無意識のうちに呟いたりしている。
「秋の日のビヨロンの・・・・・・」
どこで聞いたのか、目にしたのかは忘れてしまったが時々気になって仕方がなくなる。
――「びよろん」って何やったっけ・・・・・・。
辞書で調べてみることにする。困ったときの『広辞苑』様。が――載っていない。尊敬していた師匠にもわからないことがあったと知ってショックを受けた時のような気持ち。
――そんなバカな。
しかしまあ『広辞苑』も万能ではないのだ。「びよろん」が日本語だったかどうかも定かではないのだし、日本の辞典なのだから日本語ではないものが抜け落ちていても仕方がないと、気をとりなおして頭の中のぐちゃぐちゃの引出しをあけ、ヒントになりそうな情報を探す。そうしてなんとなく思い出した。
――バイオリンのことだったんじゃないか。
ぼんやりとした曖昧で頼りない記憶を信じてバイオリンの項をひくと、最後に「ビオロン」と書いてあった。なるほど、「びおろん」ね。私は1文字聞き違えていたのだ。かくして師匠こと『広辞苑』様の汚名は挽回され(というか。一方的に私が悪いのだが)、謎が1つ消えてめでたい気分で「秋の日のビオロン」のことを考える。
遠い日のビオロン。
むかしむかし。
私がビオロンに触れることがあったのは高校の芸術選択の時間である。1年の時、音楽教師が語気を荒立ててこう云った。
「僕に出る声がどうして君は出ないんだ!」
怒鳴られてムッとした私は、2年になって迷わず器楽を選択。そうしたらもう、問答無用で誰もがビオ
ロンなのだ。
ギィーコ、ギィーコとやりはじめて、1年間でなんとか聴けるもの(?)になったのは「ロングロングアゴー」だけである。
今は弦の押さえ方も忘れてしまったが。
そう、確かに秋は弦楽器の音色が似合うだろう。しかしビオロンはいかん。いや、いかんというのは悪いというコトじゃなくて。ビオロンがどれくらい身近か考えてみるのだ。むしろアコースティックギターで「枯れ葉」や「禁じられた遊び」を奏でてみるのがいい。 小さな喫茶店の窓際の席で、1人の女性が物思いにふけっていたら、そこはもう、セピア色の世界である。
ただし――その女性の悩みは、案外夕食の献立のことだったりするのかもしれないが。
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